金曜ロードショーで「ズートピア」が放送されたのでその感想

ズートピア」感想

※ネタバレ注意
この記事には
ズートピア
デッドプール2
「ファンタスティックフォー」
「レディプレイヤーワン」
の作品に対する感想が含まれます。

あと「アベンジャーズ」に対する皮肉も。

 

 

 2018年6月15日の金曜ロードショーで「ズートピア」が放送され、Twitterのトレンドにものぼり、様々な感想ツイートが流れてきて、僕も映画が上映されてた時に見に行ったことを思い出した。

 テレビ放送は見ておらずその当時の曖昧模糊とした記憶しかありませんが、見た時に抱いた感情をなんとなく思い出しながらこの記事を書いている。

 もちろん、「ズートピア」はとても面白かった。

 感想の中によく散見される意見として「差別に対する反感の中にも差別意識が織りこまれている」というものがある。その意見はもっともだと思う。

 でも僕はそうは思わなかった。ならばどう考えていたのか?

 ディズニーとかなんだとかハリウッド映画とかアメリカ映画のスタンダードとして作られているものなのかと思っていた。

 「ズートピア」は肉食動物=白人 草食動物=少数派 というような見立ての上での作品であることは誰の目にも明らかである。

 少数派の女性というハンディキャップを持ちながらも、高い志と適性を持つ主人公ウサギのジュディがウサギとして初めての警察官になろうとする物語。

 あまりにも現実的な社会問題をふんだんに取り入れているので、そういう時代のそういう作品なんだろうなという感じで見ていたけど、こういう見方もあると聞いて驚いた。

 その意見に納得しながらも「僕はなぜそう思わなかったのか?」という事について考えた。

 僕が「ズートピア」を見ていた時には何を感じていただろうか。

 多くの人に指摘されているような、ジュディの中に垣間見える差別意識のようなものとして

・田舎より都会がいいという上昇意識

・能力に見あった仕事をさせてもらえないという不満

・肉食動物を過剰に警戒する

ナマケモノの速度違反に驚くという事に象徴されるように種族で判断するステレオタイプ差別

 という風な矛盾?(のようなもの)が沢山あげられている。 でもそれはそれとしてって感じだと思う。他者から自身に向けられる意識とか感情とかと、自身が他者に向ける意識とか感情が同じではなくてはいけないという事があるのか? 高潔さがないとダメなのか?

 ジュディの矛盾?した感情は、女性の内心を装飾なしで描くとこうなるだろうなという感じで受け入れていた。舞城王太郎村上春樹の書く視点人物としての女性も大抵がそんな感じだから。作品のなかで描かれる"意思のある"女性はそういうものだと感じていたし、そもそもそれを矛盾として捉えること自体が間違いなんだと思っていた。

 誰の中にも混沌がありそれを当然のものとして受け入れるのか、人間の持つ脆弱性として指摘するのか、ということが大きな違いなのだろう。そしてそれがこの作品を見る上でとても重要なことだと思う。

 ジュディと同じく草食動物の女性である羊の市長さんが黒幕というのも、ディズニーとかでありがちな「身内が黒幕」という落としどころを用意しただけだと思っていた。(まさに思考停止の人間の考え方)

「僕はなぜそう考えなかったのか」というのにはもう一つ理由がある。

 

 つまり偏見だ。「ズートピア」そのものに対する偏見があって、それは見た後も大して変わらなかった。

(それがなぜ今に至るまで払拭されなかったのか?)
(それは僕が一人で見に行った上に語る相手がいなかったからである)
(平日の夜に見に行ったからカップル客ばかりでもなかったからそんなに惨めでもなかった)

 その偏見とはどのようなものかというと、

・反差別を謳えばなにをやっても正義となるという信念
・今まで差別されていたのだから少しの反撃くらいはいいだろうというノリ

 そういった精神で作られた作品だと思っていた。

 潔癖すぎる正しさが持つ危うさに気づいていない、あるいはそれを正義だと信じ切っている__そういう人たちが作ったものだと思っていた。

  田舎出身のジュディが都会に憧れるを持つのは自然なことだし、能力相応の仕事をさせてもらえないという不満を持つのは当たり前だし、肉食動物への反感を持つのも自分の身を守るには必要なことだから仕方がないし、ナマケモノが速度違反をしてもそれはギャグとして成立する。

 そういう風にでっちあげた正当性を無批判に押し付ける作品だと思っていた。今時のアメリカ映画なんてこんなもんなんだろうなと思って、ある種の諦念を持って見ていた。しかしながら僕程度の人間が思いつくことが制作陣の頭をよぎらないはずはないのだ。

 無批判性? 作中でのツッコミがなくても皮肉としては成立する。その判断を見る側に委ねるだけだ。それが僕のような馬鹿には通じなかっただけで。他の人には分かっていたことだった。

 そういった考えも含めてメタファーとして組み込んですべてを前に推し進める作品だったんだという事がこの度の金曜ロードショーTwitterが賑わったことでようやく理解する事ができた。

 しかしながら、どの程度本気でやっているのか、どの程度皮肉として映しているのかという配合比率はその文脈から離れている人間には分かりにくい。

 特に大ヒットした作品かシリーズものしか日本には輸出されてこないだろうし、アメリカによくある大衆映画の中で海外に輸出されないような平凡な作品を沢山見ている人達には理解出来るのかもしれないが、その中で描かれているのかもしれないあるあるネタを含めた上でその先の答えを見せるというやり方だったのかもしれないがその時の僕には分からなかった。

 日本でも、アニメ漫画ゲームのあるあるネタを利用したギャグやアンチテーゼの作品がある。その作品を理解できるのはその文脈を知っているからだ。

 5人組のカラフルな戦士や剣と盾で戦う若者というキャラクターが出てきたとする。それが戦隊ヒーロー、勇者だったりというイメージが浮かぶのは、普段からその文脈に触れているからで、それを知らない人や海外の人が見たら理解できないものは多いだろう。

 パロディとして紹介されていれば、引用元を調べやすく分かりやすいけど、他作品の持つ要素をパロディとしてよりも更に分解して吸収した作品はその文脈に詳しい人以外にはその本意が分かりにくく、僕のような浅い理解でとどまってしまうものも珍しくないのではないか。

 大事なのはヒットした作品だけを見ることではなく その周りの一般的な作品を数多くみることなんだろうなと思った。

 

 分かりやすいという意味では、映画の演出に対するメタ的な発言が多く、他作品のパロディが多い「デッドプール2」を見てきた感想も少しだけ。

 これもとても面白かった。

 映画館でスクリーンに集中して見ようと思っていても、主人公が脚本に文句を言ってみたり、いいシーンでもかなりふざけ倒すのでなかなかそれができなかった。良い意味で没入感が少なく、見てて疲れなかった。軽いノリで見られるのがエンタメとして優れた作品だと思う。

 デッドプールが世間に受けるのはメタ的な発言の他にも多くの要素がある。

 銃を撃たれるシーンで 忍者の真似をしながら銃弾を裁いて最初の数発は防げても、その後の何発か喰らうというマヌケさに象徴されるような、"死なないけどやられないわけじゃない"ってのがちょうどよく今求められているヒーロー像なのかなと思った。

 通常のヒーローそのものに対する飽きた感があるからお約束を破ってやられちゃうっていう面白さがある。あまりにも主人公がやられないというのも、主人公以外の人物が好きな人にとってはヘイトが集まってしまう要因にもなるから。

ファンタスティック・フォーは主人公が手足伸びるだけのゴム人間なのにボス相手にやられもせずに善戦してるのがちょっと不可解だったし)
(レディプレイヤーワンはゲームオーバーによるリスクを高く設定したせいで主人公がやられなすぎた。現実の方でもほとんどやられずに代わりにトシロウがやられていた)

 更にデッドプールは通常のヒーローとの対比も目立つ。コロッサスという鋼の肉体を持つ巨漢のヒーローでX-MENのメンバーという男がいる。正義感が強く、所謂普通の高潔なヒーローとしての性格を持つのだが、デッドプールには"優等生"”学級委員タイプ”と揶揄されている。

 デッドプールでは、コロッサスという力パワーが強いヒーローが”柔軟性のない堅物”として描かれていて、その作品の中で巨大な敵と巨大な化物同士のスタイリッシュさに欠けた泥臭い戦いを演じていた。

 今の時代、強いだけでは主役は務まらないというわけだ。今までの作品をベースに新しい時代の新しいヒーローを作る。過去の作品よりも前に進むというのが現代に必要なことなんだと思う。

ズートピア」「デッドプール」この二つの作品。

ニック(狐)とウェイド(デッドプール)に共通する要素として

・強い肉体(ミュータントとしての能力だったりとか肉食動物としての特性)を持ちながらも自分自身の手柄に執着しない

・ヒーローとしての高潔さを持たないかわりに柔軟性がある

 

 それが今の時代に受けるのかなと思う。女性受けのいい作品としてそういう要素があるんじゃないかと思った。女性受けっていうのはすなわち人間のコモンセンスに通じる部分だからかなり重大だ。

 

 ようするに今の時代はアンチヒーローが受けるのかなと思う。それもまたヒーローという文脈の一部として。

 

 映画「タイタニック」「ターミネーター」「アバター」等のジェームズ・キャメロン監督がこのようなことを言っていた。

「近いうちに、人々が『アベンジャーズ』疲れを起こしてくれることを願っているんだ。シリーズは嫌いじゃないが、分かるだろ。家族もいないホルモンを炸裂させた男たちが2時間も命知らずの行動を取って、町を破壊する以外に語るべき物語があるはずだ」

jp.ign.com

 他にもっと語るべき物語があるという。その物語とはなにか。

 今の時代、男性ホルモンを炸裂させない方向でいく必要があるかもしれない。

 

 

ズートピア (吹替版)

ズートピア (吹替版)